ワールドリブート

ワールドリブート 『夕焼け』プロローグ1−2(病院)


長い長い1本道の商店街を抜けて、緩やかな坂をしばらく登った場所に
病院はありました。
院内は静まり返っていて、広いロビーの床には沢山の患者さんや看護士さんたちが
横たわっています。踏んでしまわないように気を付けますが、なんだかくらくらして
足元がおぼつきません。おとこのこはエレベーターもエスカレーターも
動いていないことを確認すると、一目散に階段へ向かいました。
力を振り絞って一気に階段を駆け上がります。おかあさんの病室がある4階に
辿り着きましたが、上がってしまった息がなかなか戻らず、おとこのこは苦しそうに
肩を上下させました。負けまいと右手を壁に付けて、ずるずると廊下を進みます。


しかし、病室におかあさんはおらず、飛び散った窓ガラスの枠に引っかかっている
カーテンが、寂しくぱたぱたと音をたてているだけです。
からからになった喉を震わせて、おとこのこは呼びました。


「おかあさん」
「おかあさん」


しんとした廊下に自分の声だけ反響して、おとこのこはやけに悲しくなりました。
足取り弱々しくも、ひとつひとつ部屋を覗いておかあさんに呼び掛けます。


残った部屋は、とうとうひとつになってしまいました。重々しい扉の脇には
「分娩室」と書かれたプレートがありましたが、おとこのこにはまだ難しくて読めません。
高鳴る心臓にからだを震わせながら、ゆっくりと扉を開けます。
部屋の中は、より一層の静寂に包まれていました。耳に入る音は内側からの
激しい鼓動だけのようです。ぼんやりとした照明の中しばらく進むと


恐らく、おかあさんがいました。


ベッドの上に、しなやかなで美しい脚が投げ出されています。
天井に設置してあったのでしょう巨大な照明器が落下して、おかあさんの
体の上に乗っかってしまっているので、顔などは確認出来ませんが
この脚は間違いなくおかあさんの脚だと、おとこのこには分かりました。


うーん…と、おとこのこはしばらく考えごとをしているようでしたが
やがておもむろにその腕をおかあさんの股座に伸ばしました。

おかあさんの体内は仄かに熱を残していました。ぬるりとした感覚を指先で
感じながら、恐る恐る肉をかき分けて奥へと進みます。なんとなく
入院前におかあさんと作った手ごねのハンバーグを思い出しました。
やがて、指が球体のようなものに当たりました。輪郭をゆっくりなぞって
しっかりと確かめます。おとこのこは丁寧に引っ張りました。


ゆっくり、ゆっくりと…。


ずるりと鈍い音をたてて…


…赤ちゃんです。


おへその緒は既に千切れていました。
からだにまとわりついた血や体液をタオルで優しく拭き取ってあげると
もう1枚タオルを見つけて赤ちゃんを大事そうに包みました。
静かに抱き上げて、そのか細さと柔らかさに大きく溜め息を漏らします。


…わあ、おとこのこだ。ちゃんとついているね。赤ちゃんだけれど、ちゃんとおとこのこだ…。
本当に生まれた時ってしわくちゃで、お猿さんみたいなんだ…。
でも、きっととても可愛くなるよ。うん、僕にはわかる。
いこう、赤ちゃん。


分娩室を出ようとしたおとこのこでしたが、まるで忘れ物を思い出したような
口振りで、あっ。と小さく声を上げました。
おかあさんが眠る、ベッドに振り返ります。
まるで照明器から生えているように見える脚をしばらく見つめて


「………うん」


小さく頷いて、おとこのこは部屋を後にしました。
一度として泣き声を上げない赤ちゃんを、宝物のように胸に抱いて。


おとこのこは屋上を目指し、再び階段を登ります。赤ちゃんを落とさぬよう
ゆっくりと足を進めますが、一歩踏み出す度に自分の頭部から流れる血が滴って
赤ちゃんに当たりそうになってしまいます。


うーん、もう…。ああ、もうすぐだからね。あとちょっと。


おとこのこは自身が大好きな夕焼けを、赤ちゃんにも見せてあげたかったのです。
生まれて初めて見るものが大きな夕焼けだなんて、なんて素敵でしょう。
しばらくして、屋上に続く扉に到着しました。
赤ちゃんを抱きながら、背中で扉を押します。生暖かい空気を感じて
おとこのこは眉をひそめました。


空には大きくて、真っ赤な太陽が不気味に揺らめいていました。
おとこのこが大好きな夕焼けとは程遠い景色。静かに一日の終わりを告げる
暖かい灯はどこに行ってしまったのでしょう?
今目の前に浮かぶ太陽は、まるで苦痛に歪んで悲鳴を上げているように思えます。
街並みを見下ろせば、更に散々たる有り様でした。どこもかしこも燃え上がり
煙を上げて太陽を苦しめているように感じます。
美しく穏やかに日の終わりを過ごすどころの話ではありません。
唸り続けるサイレンの音に、おとこのこは愕然としました。


…こんなのダメだよ、最低だ。赤ちゃんが生まれた日に
こんなのヒドい。やめて。僕の弟にこんな風景見せないで。こんな音聞かせないで。


赤ちゃんがいなければ、叫んでしまっているところです。
鼻息荒く憤慨しますが、このままでは状況は変わりません。
どうにかしないと。赤ちゃんが目覚めて、世界がこんな恐ろしいところだと
知ってしまう前に。うかうかキャッチボールも出来ません。


ちゃんと考えたいのに、とうとうおとこのこも疲れ果て呆然とする時間が長くなってきました。
いけない、と。赤ちゃんを落としかねないので丁寧にベンチに寝かせます。
ふう、と一息つくと、突然の冷えがおとこのこを襲いました。
先程まで燃えたぎるように熱を発していた体が、氷のように冷たいのです。
寒さで身体が思うように動かず、おとこのこは自分に残された時間すらも僅かだと
ぼんやり納得しました。
赤ちゃんの顔を覗きこみ、おでこや頬に手をあてます。
不思議と抱いていた時よりも暖かく感じました。
優しく微笑むおとこのこの瞳は、既に光を失いつつありました。


最後の力を振り絞って。


金網に手を掛けます。がしりと力強く。足を掛けて、また手を掛け…。
霞む目をぱちくりとさせ、休もうとする体に鞭を打ちます。


右手…。左手…。


大人一人分の金網の頂上にやっと到着した瞬間、とうとうおとこのこは意識を失いました。
重心は頭に向かい、しばらくずるずると体を引きずった後、おとこのこは宙に投げ出されました。




ほんの数秒後、どん、と大きな激突音が上がりました。

ワールドリブート 『夕焼け』プロローグ1−1(商店街)


「そろそろ日が暮れますよ。早くお帰りなさい」


子どもたちの背中を押す、夕方のチャイムが響きました。
沈みゆく太陽が西の空を真っ赤に染めると、冷たい風が流れて来ます。
街路樹の落ち葉を舞わせながら、商店街を小走りするおとこのこがいました。
寒気を受け頬が紅潮していますが、それは若干興奮気味だったことも
あるかもしれません。
おとこのこは惣菜屋に入ると元気良く
「いつものお願い」と、お店のおばちゃんに笑いかけました。
おばちゃんはまるで、おとこのこが来ることを予め知っていたかのように
コロッケが包まれた紙を手際良く袋に入れて渡してくれました。
おとこのこのおかあさんは、このお店のコロッケが大好きなのです。
できたてのコロッケの熱を頬で確かめて、おとこのこはお勘定を済ませます。
「もうすぐだね」お店のおばちゃんは品物のケースから身を乗り出して
微笑みました。
「今日かもしれないんだよ」
おとこのこは鼻息荒く、大きく大きく手を広げます。
彼はもうすぐ、おにいちゃんになるのです。
ずっとずっと、待っていました。おとうさんとおかあさんにお願いをして
神さま仏さまコウノトリさまにも毎晩寝る前にお祈りをしていたのです。
おとこのこかな、おんなのこだろうか、いっしょに何を見ようか遊ぼうか
楽しみでしかたありません。
おとこのこだったら、キャッチボールを。おんなのこだったらあやとりを
覚えて、教えてあげないと。
まずは、元気なのが一番です。はやく、はやく、逢いたいな。
おとこのこは惣菜屋のおばちゃんに手を振ると、おかあさんが入院
している病院の方へ足を向けました。


おとこのこは白い息を吐きながら、商店街を走り抜けていきます。
街路樹の葉が風に吹かれて、乾いた音を立てました。
おとこのこは風の冷たさに身を強張らせましたが、不思議と寒くはありません。
それどころか生温さを感じたのです。


背中から感じる風はどんどん強く、暖かく、熱く、激しく迫って来ます。


おとこのこの走るスピードが、追い風に押されどんどん速くなります。
何が起こったのか考える暇もなく、おとこのこの足が地面から離れ
とうとう体が空中に浮いてしまいました。
空と地面がくるくると回り、強い衝撃を受けて目の前が真っ暗になりました。


どれほどの時間が経ったのでしょうか。おとこのこが目を覚ますと
異常ともいえるくらい真っ赤な真っ赤な空が、雲までも色を染めていました。
次に何かが燃えている、焦げ臭い嫌な匂いが襲ってきました。
体を持ち上げて、周囲を見渡します。
自分の足のすぐ横に文房具屋さんの立て看板が、ぐにゃりと折れ曲がって
倒れていました。道にはガラスの破片が無数に散らばりほのかに葉を
残していた街路樹は丸はだかになっていました。
あちこちで火の手が上がり、黒煙がもくもくと立ち昇り空を濁らせていきます。
耳に入るのは、どこから聞こえてくるのかも分からないほどに
反響する呻き声、悲鳴や怒声。そしてなんとも不穏な気分にさせるサイレン。


おとこのこはなんとか立ち上がって、手や足が動くことが分かると
少しずつ歩調を早めて、また走り始めました。
なんだか頭がくらくら、体はふらふらします。額の右のあたりがやけに熱いのです。
確かめるのはなんだか怖い気がしたので、考えるのを止めてとにかく
病院へ急ぐことにしました。
おぞましい悲鳴から、不快な異臭から逃げるようにおとこのこは走ります。
道に横たわる人たちには目もくれず助けを求める声も一切無視して
燃え上がる商店街をひたすらに、おとこのこは走り抜けていきました。